The Creator Fear

創主神:恐怖の力を観察すること、2011年1月10日

Source of reference: Sacred School of OmNa, Observing the Power of Fear by The King of the Gods of Creation, January 10th, 2011

 

Observing the Power of Fear by The King of the Gods of Creation

by Natalie Glasson – January 10, 2011

The King of the Gods of Creation

Channelled through Natalie Glasson 10th January 2011

 

 

神聖な愛のエネルギーは、汝らの周り一面の光のリボンのように流れ、汝らのオーラの中で振動しながら汝らを優しく柔らかく抱き締めます。愛は完全な真実であり、これは神である創主神が今汝らを包み込むエネルギーです。地球上の光と愛の存在として、私たちは一つなので神は汝らを考え、汝らを尊敬し、そして重んじます。

 

多くの人々は、この声明を創主神と一つであるということとしますが、汝らの何人が実際にこのことを完全に理解しているか、汝らのハートの中でそれを知り、汝らの存在の中でそれほど強力にそれを感じなさい。私は神と一つです、神は私と一つです、という声明を熟考する時です。これは汝らの真実であるということを理解すると、それほど重要、それほど簡明であり、それに関連した広範な意味または理解を依然として持ち得るという声明は他にありません。

 

この声明を理解するためには、それは汝らが愛であるということ、汝らが愛されているということ、そして汝らは愛から、そして愛の中に創造するということを自動的に意味することを認識しなければなりません。また汝らが、愛として、そして愛の中に存在する創主神の神聖な性質とエネルギー、つまり創主神の光輝であるということを意味します。創主神を理解するためには、愛を感じ、経験し、そして受け入れる必要があります;パートナー間のロマンチックな愛よりももっと深く広がる愛。汝らを完全に満たし、汝らを包み込み、汝らを癒し、導く愛です。今汝らの心の中で新たなその意味とともに汝ら自身にこの声明を述べなさい。

 

私は神と一つです、神は私と一つです、

 

今、この声明を声に出して言い、言葉の背後にエネルギーを置きながら、それをだんだん大きく言いなさい。今、立ち上がって、それを言ってみて、まるで汝らが汝ら自身や聞きたいと思っている誰か一人に汝らのポイントを分からせようとしているかのように、汝らの腕を動かしてみなさい。汝ら自身にその声明を大きな声で言いながら、部屋の周りを行進したり、飛び跳ねたり、踊ったりしてみて、汝らが作り出しているエネルギーと熱意を感じなさい。汝らがしたいなら熱狂しなさい、汝らにとって正しいと感じる何でもしなさい、汝らが好むなら屋上からそれを叫びなさい。

 

その後、汝らは準備ができたら、汝らが創造して来たエネルギー、決意、本質的に汝らが創造して来た生命またはライフ・フォース・エナジーを感じながら、もう一度座って深く呼吸しなさい。創主神のエネルギーを流れさせなさい、そしてそれがもたらす平和、安心、愛を感じなさい。

 

もし汝らがこの声明は真実であったことを本当に知ったならば、それを汝らの心でただ理解するのではなく、それを汝らのハートで確認すること、それを汝らの行動と現実の中に広げることで、成長と発見のすべての授業は終わるでしょう。汝らはその真実を忘れないでしょう。体得と知識を持つことのこの段階に到達するには、焦点合わせと集中力の膨大な量が必要です。なぜならば、地球が多くの気を散らすものを保有するからですが、常に創主神と同調したままであることは汝らの使命です。

 

何人かはこれを不可能と見なすかも知れませんが、一旦汝らが創主神と同調するように一日の一部を捧げれば、この同調は広がります。それは汝らの一日に広がる霧のようでしょう。また、魂の自己を明らかにするために、下位または自我の自己を放棄する必要もあります。汝らの魂は、それが創主神と一つであるということ、それはいつでも創主神との聖奉仕(訳注)の中にあるということを既に理解しています。なぜならば、それは創主神としてそれ自身を尊重するからです。

(訳注)英語ではホーリー・コミュニオン(Holy Communion:communionはラテン語での「相互感応」の意味)となっていますが、意味としましてはディバイン・サービス(Divine Service:聖奉仕または神事)に該当し、人の魂は、創主神の霊(魂)を受けていることからこの様に表現されています。

 

人格として、汝らはまだ汝らの魂の真の存在を受け入れて来ていないかも知れないので、汝らの道を先導し、汝らが住んでいる現実を築くために自我に頼っているかも知れません。何と言っても自我は汝らを気にしていて、それが可能なあらゆる方法で汝らを援助したいと思う、これは完全に結構で受け入れられます。それなら、なぜ汝らは成就したと感じていないか、より良い何事かを願いなさい、汝らはもっと価値があると知りなさい、地球上の汝らと汝らの人生にもっと多くあるということを知りなさい。

 

多くの人にとって、あたかも内部に悲しみがあるかのようで、彼らにとってまるですべてが間違っているかのようで、或いは人生から失っている何事かがあるかのようであり得ます。自我は、汝らの自我が汝らの現実を作り出していることに気付き始める前に、真実を見ることから汝らを妨げながら、汝らの人生で一定期間汝らを支援するだけはできますが、それは大抵は恐怖と支配からそれを作り出しています。真実は、創主神をあらゆるものに見ること、或いは愛をあらゆるものに見ることです。

 

注目されるためと、愛されるための自我の願いは非常に強いので、完全に不釣り合いに単一の感情や欲望を抱きながら、すべてのことを強調します。もし汝らの頭にまさにひょいと浮かぶ小さな恐怖が、それは強大な木に成長する種子に似ているということに汝らを気付かせるならば、これは汝らの自我またはより低い自己の影響です。汝らの自我を愛し、許し、消え失せるようにすることは、汝ら自身、汝らの魂への、そして創主神への大きな贈り物です。

 

神は自我の影響をさらに説明したいと思います。

 

もし汝らの体を含む地球上の何もかもが錯覚であった、それはすべて汝らの想像力の一部、すなわちまやかしであった、と想像したならば、どのように感じるでしょうか。幻想や見掛け倒しを信じていたという恐れを九分通り感じるでしょう。汝らが愛し愛着を感じる汝らの人生についての事であるので、汝らは悲しく感じるかも知れません。それは汝らのものであり、汝らにとてもおなじみなので、汝らの人生に対して恐らく悲嘆するでしょう。

 

万事が幻想であったと分かると、真実を見つけて汝らの現実から切り離したいと思うでしょう。もし汝らがすべてを有難く思って愛しているが、それを必ずしも必要としなかったという気持ちをなお持っているとは言え、すべてを手放すか引き離すべきであったなら、これは汝らをより良く感じさせると思いますか。先ず第一に、汝らは誤った印象から離れつつあって、その後真実を見ることができるかも知れませんが、それから汝らは一人で、孤独で、傷付きやすく、そして途方に暮れて感じるであろうことが最もありそうです。

 

なぜ汝らは一人で傷付きやすいと感じるかも知れないと思いますか。その場合はあり得ます。なぜならば、汝らの自我が汝らをまだ惑わし、この現実を汝らにまだ肯定するからですが、汝らは心からそれを信じ、汝らはしなければならない、さもなければそれをとても生き生きと創造したり、痛みや苦しみをそれほど深く感じることはないでしょう。汝らは、汝らの人生に目的がない、或いは誰ももう汝らを必要としないと感じるかも知れませんが、これらもまた惑わしです。

 

自分自身の中を覗いて、苦しみや痛みがどこから来ているのか熟考する必要があります。それらは汝らの上に載せられるのですか、或いは他の人たちによってもたらされるのですか。これに対する答えは否です。全部の宇宙には、汝らを傷付けたり、汝らに痛みを引き起こす可能性のある人や存在はいません。もし汝らが苦しみと痛みの原因を理解すれば、その時汝らはこれが真実であることを知るでしょう。汝らに苦しみを引き起こして来たのは、汝らの過去の経験と過去の生涯であり得ますが、実はこれは幻影です。

 

それらは汝らにしばらくの間、不調や不安定を、誤った信念をすら生み出すことを引き起こして来たかも知れませんが、汝らの経験は汝らに痛みを引き起こすことはできません。神は、汝らの肉体は如何に繊細であり得るかを汝らは理解しているということを知っているので、神は感情と精神の外傷の話をしているということを強調しなければなりませんが、これは、汝らの内でエネルギーがどのように影響を与え、供給したり滞留するかを理解するために、それは汝らが本能的に知覚して身体で感じることを認めているためです。

 

自我は、汝らが傷付き易くて一人であり、痛みや悲惨さを感じるという、人生に他には何もなくて汝らの人生の残りの部分に苦しむのを運命付けられるという、汝らのための姿を作り上げることができます。自我は、汝らがそれを信じるまでこの姿を描くでしょうし、勿論汝らは信じるでしょう。なぜならば、汝らの周りのすべてが汝らの心で作られた幻想であると知ってさえも、汝らはなお自我の言葉と信念を信頼しているからです。

 

自我は、それが汝らを守っているかのように感じます。汝らの自我は、汝らを地獄の中に存在させながら、それが汝らの周りに恐れを生じさせればさせるほど、汝らはますますそれを愛するでしょう。汝らはその空想の産物をつかんでそれらに気を配っているために、汝らの自我は愛されたと感じます。子供たちは、他の人に注目される時、いつも愛されたと感じませんか。この段階で自我はそれがうまく行っていると思っています。

 

汝らは自分の自我を愛しており、それを汝らの人生の大部分にしているのでそれは幸せを感じますが、自我は汝らの内の創主神の側面の魂の力を忘れます。自我は汝らを取り巻く霧に唯一似ています。汝らの注意を向け直し始める時に、汝らはそれを吹き飛ばすことができます。汝らの焦点は、汝らの魂、汝らの中の愛の側面、賢明で開放的なエネルギー、つまり汝らの神の側面に置かれる必要があります。

 

汝らの存在のこの部分は、それが必要とするすべてを知り、理解しています。それは、幻影、幻想、或いは誤った印象に屈服しません。汝らの魂は真実を捜し出して、いつもそれを汝らの注意に訴えます。汝らが、創主神と同調されるべき汝らの魂に合わせて考え行動すると、その時はあらゆるものが愛とともに、または愛から創造されます。人が愛、安心、美しさ、そしてそれらの中にある知恵を無視できるのは全く不可能だと思われるかも知れませんが、すべては焦点ゆえに、それらは簡単にすることができます。

 

神の説明から理解すべき重要なことは、自我が常時汝らを支配し、惑わせるということです。ある面で、それは巧妙で狡猾になり得ます。汝らの魂は決して汝らを欺くことはなく、常に汝らを真実に、創主神に、そして愛に導くでしょう。魂が提供しなければならない至福の現実を受け入れることを、汝らは如何にして自分に認めないことができるでしょうか。その答えは、汝らは自らの自我にとても影響されるので、他に何も汝らに明らかでないということです。

 

それで、汝らが現実を作り上げるということを理解する時でさえ、汝らの現実のほとんどが虚構である可能性があります。汝らが現実を愛から見ることを決意した時でさえ、汝らは必ずしも何かを必要とする訳ではありませんが、状況や人は神聖なタイミングで汝らに流れるであろうという理解を持ちながら、汝らは汝らの自我が恐怖を作り出すことによって汝らの思考を支配することを認めているために、汝らはさらに苦しみと痛みを感じられるのです。汝らの自我は支配しているが、汝らは決してそうではない時に、一人に感じられるのです。

 

汝らが創主神または神自身に現れる様に求めている魂に没頭して創主神に同調すると、その時汝らの魂は自我を終わらせて汝らは充実感を感じ、汝らは真実を見て、とても燦然として高揚させる愛を感じます。汝らがかつて必要としていたすべては、汝らの魂と創主神とのつながりだったことに気づきます。この焦点をもって、汝らは自我の影響を徐々に消え失せるようにして、本当に汝は誰であるかを理解することができます。

 

それで、もし汝らが気が沈む、気が重い、失った、恐ろしいと感じている、或いは苦しんでいるならば、これは虚構の印象であり、どんな種類の恐怖も虚構の印象であることを知りなさい。それは汝らにとても現実に感じるかも知れませんが、それは単に汝らの自我の影響です。汝らの魂は傷付いたり苦しんでいないし、汝らの魂はただ愛の振動のみを発しています。もし汝らがこの愛の振動に調子を合わせれば、汝らの現実を変容し、そして完全であり、啓発されて自由になります。

 

自由は多くの人が望むものであり、彼らは彼らがしたいと思うようにするための自由としてそれをみなしますが、それはより深く由来しており、それは自我が引き起こす苦しみから解放されたいという望みです。創主神と汝らの魂とをつなぐことで今汝ら自身を解放しなさい。汝らの魂は、汝らが地球上で理解し、演じる必要があるすべてを思い起こさせます。

 

自我は恐怖を作り出すということを覚えておくことが重要です;恐怖は最も大きな錯覚の一つです。もし汝らが自分自身を創主神として思い描くならば、汝らは愛がすべての恐れを終わらせることに気付くでしょう。自愛の力、創主神に対する、そして地球上の汝らの仲間に対する愛は、汝らが常に安全と安心を感じ、汝らはいつも愛されているということを意味します。

 

汝らが恐れ、疑い、或いは心配するあらゆるものは創主神の現実には存在できません、それは不可能です。なぜならば、創主神と汝らの魂は汝らに愛を話すだけであるから、それだから、汝らは他の人に愛を話すだけでしょう、それだから、人類のすべてが愛を知っている、感じている、体験している、そして話すまでそれは成長します。終わるべく何と美しいイメージを神が思うか。

 

汝らの創主神が汝らに対する現実の創造的エネルギーであり、汝らは、同調と焦点合わせを通して、汝らがかつて想像できたよりももっと美しい現実を創り出すことができるので、汝らへの神のメッセージは、汝らが自分自身を愛し、許し、そして尊ぶためです。汝らの思考、信念、そして自我を認識する必要もあります。そして、汝らの周囲と内の創主神に焦点を合わせるためにそれらを変化させます。

 

神聖な愛をもって、

 

神が生命と汝らの本質であるので、汝らが神に話しかけるためにどちらの通り名を選択しようとも、神は創主神です。

 

翻訳、他と同様に表題を変更:浜野